blog
民藝とお念仏。対談忘備録その一
2021.05.21 Friday

前ブログに引き続き、

展示のテーマ『民藝に宿る南無阿弥陀仏』とあるように、

「民藝と仏教がどうつながるのか」そのお話を拝聴した。

一般に、民藝の器は、名もない職人さんが作った安価で量産可能なものと、その一方で、有名な陶芸家の作品も民藝とされる。

以下、対談の2部構成の第一部から、乱雑ながらまとめてみた

 

太田住職にとっての民藝とは?

ー生活そのもの。生活のなかからあらわれてきた美。器、音楽、料理、踊り、、などなど、すべて民藝といえる。

また、広くいえば、自然と一体になった生活で、狭義では、工芸などがそう。

個人のはからいを超えて、おおいなる力とつながってできあがったもの

ごまかしがなく、美しいもの。そうであれば、機械生産であっても民藝(これは柳宗理曰く)。

世界中に民藝があり、すべて美しい。

民藝の特徴のひとつ、平和だということ。

毎日使えるもの、飽きないもの、民藝の使命

 

 

では、「美しもの」とは?

ーひとことでいえば、「救い」。民藝とは、救われていった結果。

器を通してそれ(救い)を感じられることが「美しさ」

 

 

お念仏と富山について、

―富山には、妙好人(浄土真宗の篤信者)がいっぱいいた。子どものころからなむあみだーを唱える親の姿をみて、理屈なしに唱えていたから、知らないうちにそういう境地(大いなる力の存在)をいただいている。南無阿弥陀という生活が成り立っていた。

民藝の品も、昔は、すべて生活必需品。どこにでもある、生活の伴侶

理屈を超えている。

大分県の恩田焼。ここもまた熱心なお念仏の村。なんの力みもない作品たち。

民藝と南無阿弥陀は、本来セットのようなものだった。

誠実な生活をすることによって、こころの充実がえられる、それが、民藝であり、南無阿弥陀仏を唱えること

昔のひとは、阿弥陀さまという言い方はよそよそしく、「はたらきさま」と言っていた。

はたらきさま(わたしたちのために働いてくださっているというのを、暮らし、仕事の中で感じていた。その働きがあって、私たちはしごとができると)

 

自力と他力について、

―自分で自分をすくうか、すくわれていくか。

自分で自分を救えるというのは、ハンディキャップ(煩悩)がない。

ハンディキャップのなかで阿弥陀仏ははたらく。

われわれは、ハンディキャップを比較対象にしたり、どうにかしたいとあがくけれど、それ(ハンディキャップ)があるがままを認めて生きることことが大事

 

 

棟方とハンディキャップ、

―棟方はハンディキャップのかたまり。極度の近視だった。

棟方に嫉妬した絵描きが「この下手くそ」といったのに対し、「この上手くそ」と言い返したという逸話あり。

ただ、棟方が眼もわるく、絵もじょうずでないのに絵をかけたのは、救われていたから

棟方は、どんなときでも自分が書いた作品を自分それ以上のものとして扱っていた。たとえば、自分の作品をどこかに運ぶ際には、自分のおでこ近くにまで作品を両腕で持ち上げ、奉るかのように運んだ。仏さんをもつように作品を持っていたのだ。

そんな棟方の作品には、不思議な力がやどる。

 

 

民藝の特色の一つである、明るさと静けさについて、

― 棟方の作品は、版画、大和画(肉筆画)、書の3種に大別

大和画は、明るさと救いの光を放ち、版画は、静けさを放つ。

版画をほるということは、自分の思い通りにコントロールできないというハンディキャップがあって、そこに救いがある。

棟方の書は、情熱とかではなく、その思いが、ハンディキャップに働きかけて書かれでてきたものといえる。

 

 

ハンディキャップの力とは、

―ものをつくるときに、自分のハンディキャップを卑下してはいけない。ハンディキャップが大きな力との接点となる。

ただし、ハンディキャップにおまかせというのではない。ハンディキャップのなかで、誠心誠意をもって自分の力を使うことで、その力がはたらく

親鸞の浄土真宗は、それをお念仏であらわしたともいえる

 

 

「美」は証明、

―美というのは、証明でもある。その働きが現れたものが美。一目瞭然。

中途半端なものというのはは、いろんなはからいがはたらいて、大きな力が働けなくなっている。大きな力が働けるはずなのに。それを自分からはからいを働かせて邪魔している

美しくないものは、つくることはできない。それが今は、うつくしいものがつくれない時代。それは、このおおきな働きを信頼していないにつきる。生活とその働きの関係性がきれてしまっているから。今の時代のせっかくの先端技術も、自分たちを苦しめる方向ににしかつかわれていない

そういうことを気づかせてくれるのが、民藝。それに触れ、使って、気づく。民藝運動とはそういうことではないか。

 

(太田住職と林口女史との対談/第一部より)