<第二部>より
宿業者是本能則感應道交について
ー真宗のことばで宿業(しゅくごう)ということばがある。棟方は、「宿業者是本能則感應道交」という曽我量深(新潟の真宗僧侶・仏教学者)の言葉に感銘をうけた(その書は福光美術館にある)。感應道交(仏と交わる唯一の場所)。仏に出会える場は、じつは宿業の中にしかないのだと。これまで自分の境遇に苦しんでいた棟方は、この言葉によ生き方がかわる
民藝にも芸術家はいる。そういう人の使命は、民藝の美しさを証明して出す役目。お寺のお坊さんの役目といっしょ。こういう混迷な時代だからこそ、作家が必要。民芸運動のなかで、作家と無名の職人がともにあることは矛盾していない。
富山と棟方
ー棟方は終戦の年から7年富山に滞在した。棟方の自叙伝「板極道」にこうある。富山での大きないただきものは「南無阿弥陀仏」。そして、もうひとつのいただきものが、「他力」。これまで自力の世界にいた棟方だが、しぜんと他力というものに足がむいた。真宗王国であった富山は、このようなふしぎな仏の知恵につつまれていたのだ。ここでは、だれもが阿弥陀さまとなってくらしている。また、日本中で、山と川がこれほど立派な県はないと。
棟方が富山に恩返しとして残した素晴らしい作品がある。高岡の中田の善興寺というお寺の本堂にある「二河白道図」。人間のこころというのは、怒りの炎と、むさぼりの水でできている、それがあばれまわっているなかに一本の真っ白な道が通っている、そこを真っ白なこころで歩いていく。同じく、宿業の中にも一本の道が通っている。その道とむきあい、誠実に歩んでいく。棟方芸術は、富山で土徳(土地が持っている力)と出会あったことが大きなきっかけとなり、世界的に躍進した。だからこそ、いまの富山人は、もっとこの自然の力を信じるべき
富山という土地
ー戦争さ中、柳は河井らと相談して、空襲のひどい東京にいた棟方を疎開させようとした。河井が直観的に富山はどうかと。
東京から地方へ逃れるひとたちが生活難民として扱われるなか、富山では、作家は作家として受け入れるという気質があった。終戦の年に、民藝運動をたちあげるなど、富山県の優れた特質といえる。魚津や黒部のほうにも棟方をしたう人々がいたという。あんな苦しい時勢でも、みんな芸術への前向きな心をもっていた。
今のコロナもまさに同じ
ー私たちはどんなときでも、美というものから心と目を離してはいけない。
終戦の、日本が滅びるんじゃないかというときに、棟方を芸術家として迎えいれた富山。美というものを大切にしようという気質が、「お念仏」の伝統とともにあった(お念仏の力がはたらいていたともいえるかもしれない)。
いま、コロナの恐怖からネガティブな中にいるが、こういうときだからこそ、「美とは何か」ということを深く自分の問題としてとらえるチャンスかもしれない。コロナを宿業として受け止めて、そういうところ(ハンディキャップ)に真実が必ずはたらくんだと信頼すること。その中で、先祖がやってきた歩みをみつめなおしてみるということが大事なことではないだろうか。
柳宗悦と富山
ー棟方が滞在したことがきっかけ。棟方が来ている間に、宗悦も何度かきて、棟方の芸術の変化に気づいてた。宗悦は、そのあと、城端善徳寺にて『美の法門』をかくにいたる
城端別院善徳寺蔵の三帖帖和讃について
ー柳を城端別院にとどまらせたのが、そこにあった色紙和讃だった。柳は、浄土真宗の和讃の字が人類が生み出した文字の中で一番美しいという。真宗独特の文字。その感動から、柳の字は、真宗文字になった。
なぜ美しいかというと、もっとも我がでない字だと。誰が書いても字ががでない。
そのあと、柳は、五箇山を訪問し、かねてから切望していた赤尾の道宗の跡地に立つ。
「妙好人」と「民藝」とが柳の中で重なる。妙好人というのは、名僧高僧に劣らぬ南無阿弥陀仏の理解者でありつつ、ふつうの生活者である。それは、無名の職人が、作家に劣らぬものをつくりだしていることと、全く同じではないか。そしてどちらも、はたらいている一番の場所は、底辺の民衆の場にある。その民衆の力が、美しいふるさとを生み出してきたことに柳は気づき、「土徳」という言葉であらわした。
これまでの自分の思想の集大成を書く場所として、城端別院に70日の滞在。その時本堂で、なにげなく開けてみた経典、四十八願。その四願に目が行く。「私の浄土に見良いものと見難いものがあれば、それは浄土ではない」。真実の世界では対立はない。
そして、これこそ民藝を仏教的に説明した言葉だと。平等とは違う。たとえば、ヒマワリとスミレの花の大小について、比べたがるのは人間の計らいだが、仏からすればどちらも確実に救っているものだということ。輝きに程度の差はない。そうかんがえると、民芸品も同じ。そういうことが全て、一瞬にして理解でき、美の法門がかきあがったという。
戦後の日本の民藝運動がこの富山から始まった。さらに富山の民藝館も終戦後いちばんに建ったもの。そうかんがえると、富山に現在住むわたしたちはすごい伝統の上に生きている。
今回の展示について
ー解説をつけていない、かんじるままで。柳先生いわく、ものごとを知るということは、まず見ること。見てから研究せよと。
しかも民芸品は、日によって見え方が変わる。そこで自分のあたらしい感性とであって、毎日飽きのこない生活を、民芸品とともにくらしていく
展示作品の柳のこころうたについて
→自分が見ているのではないということ。
美しいものをみる、感動するというのは、その人の感性が優れているからではない。ほんとうに感動しているときは、仏が仏をみせてくれている。つまり、そういう働きが自分にはいってきて、働きの姿をみせてくれているんだということ。仏が仏を見るというのを柳は、念仏が念仏をすると。私がしているのではない。
呼び声はみなにかかっている。それがきこえるかきこえないかだけ。
美しい!とかんじているとき、自分は救われている。
自と他
ー自分ってなに?皮膚の内と外?
つきつめていくと、内にも外にも自分がある。絶対不二。根底はすべてつながっている
世界中の民芸品が一緒にあっても喧嘩しない
ー民藝品というのは、どの品も、自我を主張しないもの。自我を主張しないものと、どれだけ一緒にいようが喧嘩がおこるはずがない
(太田住職と林口女史との対談から)